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2014年9月29日月曜日

感性が切り開くからだの世界——身体班とは何か?

諏訪正樹研究会で四期目になった古株のよーりが説明します。身体班とはプロジェクトの一つです。諏訪研の中でも、武道や舞台、陸上といった身体を積極的につかう分野を修めたメンバーが自分のからだを進化させるのが目的です。

さて、諏訪研でからだを進化させるとはどういうことを示すのでしょう。この問いを端的にあらわす諏訪研のキーワードが「感性開拓」です。豊かな感性を育むという抽象的な目的をからだメタ認知という具体的な手段で達成します。からだメタ認知によって感性を、ひいてはからだを進化させるのですね。ここでの「からだ」というのは物体としての身体と意識で作られるソフト的な意味でのからだの融合です。この考えが、からだメタ認知において重要なのです。ハードとソフトの両輪でからだを進化させます。一方、従来の科学ではえてしてハードとしての身体だけに注目しがちです。以下のような分析が特徴的です。

「アイカメラを使ったところ、野球で一般のバッターはピッチャーの上半身や下半身を見るなど視線が散っているのに対して、優れたバッターがピッチャーの肘を中心に見ていることが分かった」

このように、スポーツ科学では素人とプロの違いを客観的物理データであらわします。もちろん、 大変有用なデータなのですが、こういったプロのデータを全て体現すれば素人がプロになれるというわけではありません。乱暴なもの言いになってしまいますが、これはイチローのフォームなどを真似した似非イチローはいても実際のイチローのパフォーマンスに匹敵するイチロー123…が大量発生していないことからも分かりますね。

どうして、従来の科学の物理的客観データだけでは素人はプロになれないのでしょう。私たちの見解は先に述べました。そこにハードとしての身体のデータがあってもソフト、意識としてのからだが登場していないからです。先のバッターの視線の例だと、優れたバッターが「どのような意識で」いるかという視点が欠けているのです。ハードの物理的データというのは結果としてあらわれた、いわば出力です。その前に意識という入力があるはずなのです。

よくある反論に「プロでも上級者がプレイをするときはどこも意識しない。ほぼ無心の状態なんだ」というものがあります。私たちはこれを否定しません。この反論は反論になっていないと考えるからです。プロゴルファーについての実験から導かれた仮説が有用なので引用します。

あるプロゴルファーはパターのときにほとんど意識をしていませんでした。一方で素人がパターをするときには疑問や意識が出てそのつど試行錯誤しています。そこで、パターに少し手を加えてまっすぐボールが転がらないようにしました。これでもプロは意識をしなくとも身体が自動的に修正してまっすぐボールを転がせたのでしょうか。現実は違います。プロも素人と同じく疑問や意識が出て試行錯誤をはじめたのです。

この実験から導きだされる仮説とは「プロはかつて意識的に試行錯誤をしていたが、上達してからはパフォーマンスを無心で行うことができるようになった」というものです。こういった意識せずになにげなく行えるパフォーマンスを私たちは暗黙知と呼んでいます。暗黙知になる前に、自分のからだをどうしたいのかという意識を改革できるのがプロの凄さだと考えるのです。そして、意識を開拓するのがからだメタ認知です。

ここに至って、感性開拓という言葉が重みを持ってくるでしょう。感性が豊かな人は意識の仕方がクリエイティブなのです。換言すると、「目のつけどころが人とは違う」。一流のプロも例外なく感性が豊かです。このことはテレビで何気なくこぼす言のはしばしが素人のそれと一線を画していることからも分かります。ピッチャーの肘をただ見ようとするのではなく、もしかすると肘が描く軌跡を見ようとしているのかもしれません。個々のバッターのそうした感性の試行錯誤のすえに、結果として肘を見るという出力に繫がっているのかもしれません。

感性を開拓するためにからだメタ認知をつかうと言いました。メタ認知とは、言葉や表現といった人間の認知を認知するという活動です。そうすることで自分がどんなことを意識しているのかが明確に浮かんできます。自分の感性がどうなっているか、その良いところがどこか、何が欠けているのが、どうすれば進化するのかが分かります。メタ認知を繰り返すことで感性を深めることができるのです。ただ自分の意識について語るだけでも効果を得られます。そう、「語る」。説明が長くなってしまいましたが、「語って進化する」というのは語ることで感性を開拓する、ひいてはからだを進化させることに繫がるのです。

諏訪研のプロジェクトは全て、この感性開拓によるからだの進化に根ざしていると考えてもらってほとんど間違いありません。しかし、それだけでは身体班が差別化できていませんね。語ることにはもう一つの意味があるのです。語るという行為には自分だけではなく、それを聞いてくれる相手がいます。複数人で集まって語り合うことに意味があるのです。そこで「目のつけどころ」の学びが生まれるからこそ身体班に意味が生まれます。例えば、ピッチャーの肘をどう意識するかについて悩んでいるバッターがいるとして、彼が剣術をしているメンバーと語り合っている中、興味ぶかい話を聞きます。

「剣道には遠山の目付けっていう視線の取り方があってね。相手の目を通して、はるか遠くにある山を見るようにするんだ。すると、相手の目から心の動きを読み取るだけじゃなくて相手の身体全体をボヤーっと見ることができるんだ。いわゆる周辺視に近いかもね」

何かを通して遠くを見ると全体を見れる……。この話を受けて、後日ピッチャーの肘を通して遠くのスタンドを見るようにすると、ボールがどのタイミングで来るのかだけでなくどんな変化をするのかが何となく分かるようになってきた……。

上はあくまでも例えですが、メンバー間で語っているとこのような「目のつけどころ」の学びが起こります。おそらくこれは、野球と習字といったようなあまりにも遠い分野の間では起こりにくい。身体を積極的につかうという共通点が学びの頻度をたかめるのです。今までも週に一回はお互いの身体についての発見について語り合っていたのですが、日々の発見が多くなってきてそれだけの回数では収まりがつかなくなってきました。そのため、こうしてブログを作り、ここでも語るようにしようという話になったのです。毎日誰かが更新します。

自称深い感性からどんな語りが飛び出すのかが楽しみですね。また、諏訪研の概念が難しければ以下のURLで見ることができます。長文をごらんいただきありがとうございました。

http://metacog.jp/major-concepts/

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