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2014年11月1日土曜日

「込める」「消す」「抜く」「出す」。力と気を扱う意識の変遷

武術という世界は何をもたらすか。

……now exploring……


「私は未だに疑問に思うよ。この正拳の握り方が正しいのか、いつも考えている」

1200万人の会員数を誇った世界最大の空手団体、極真を創始した大山倍達が晩年まで言い続けていた言葉である。大山総裁の終わりない向上心の一端を示す言葉であると同時に、たかが拳、と思考をやめることができない拳の深さが垣間見える言葉である。

さて、拳をぐっと握ったとき、拳に入れた力はどこに行くのかを考えてみたい。

どこにも行かない。これが僕の現時点での主張である。

拳に力を込めたところで、その力の行き先は拳の中心である。だから、いくら込めても横から見て力は指を伝って螺旋を描き、拳の中で相殺されて消えてしまう。

前の記事(漫然とした日常を武術が食う)で宣言したように、武術は老人でも使えなければならない。老人には、力を込めるだけ込めて自家中毒させるなどという余裕はない。持てる力の全てを出し切って、効率的に作用させなければならない。
力を自分の身体という箱に押し込めるのではなく、外に解放するという視点について改めて最近考えさせられた。

先日の身体班でしたパフォーマンスにも関係がある。筋トレをして筋肉隆々な班員に腕を掴んでもらってそれを振り払うという余技をした。僕は筋肉を鍛えたことがほとんどないため、他の班員と比べれば枯れ木のような腕をしている。

まず僕が拳を握って、筋肉を強ばらせて力任せに振り払おうとした。動かない。腕の太さが一回りも違うのだ。致し方ない。次に、力を抜いて全身をうねらせるようにして握られている部分に丹田の力を伝えた。すると、振り払うことができるのだ。

同じようなパフォーマンスは合気道なり太極拳なり、非常に多く存在する。正直にいって、このパフォーマンスがそのまま武術の実用性の証拠になるわけではない。必要条件であっても十分条件ではない。原理さえ知ってしまえば武術を深くやっていなくともできてしまう宴会芸だ。だから、インチキめいた自称武術家に利用されることが多い。


そのことを思い出し憎々しく思っていたときのことである。僕は最近気付いた丹田の膨張感覚の一つを利用していた。美容院で髪を切られている間が暇だったのだ。
丹田といったときには、一般的に下丹田のことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/丹田
だいたい、骨盤からヘソにかけて腹部の中にボールが収まっていると想像していただければよい。

下丹田を動かす際には、どういう箇所に注目してどういう意識で動かすか、様々な入力変数が考えられて方法は人によって千差万別である。僕でも十数種類はストックしている。

そのときには、僕は丹田が動いている感覚を意識していた。僕の丹田についての気づきとして、仙腸関節をゴリゴリ動かしているときに「ヘソから地面へ引いた垂線とベルトのラインとの交点(以下、ヘソベルト交点)」から膨張感覚が始まっていることがある。
最近はそのヘソベルト交点を意識して下丹田を扱っていた。すると、かなり調子がよくなったのだが、以前からあった疑問は解決できなかった。

それは、「丹田や腹圧を膨張させるときに圧縮をかけているときに脱力はできるのか」という疑問である。
以前に身体班でも話し合ったことだが、腹圧をかけるときにはどうしても腹周りに力を込めて緊張させなければならない。かねてからお話してるように、僕の流派では力を入れないことを流儀にしているから筋肉を緊張させることは避けたい。

実際、今までも調子よく丹田を膨張させたところで腹周りを脱力させるに伴って膨張感覚も消え失せてしまっている。
この人物は、世界最高クラスの下丹田の持ち主であるミカエル・リャブコ氏である。氏は自身の流派であるシステマにおいて、会員に対して常にリラックスをするよう説いている。

「力まずにリラックスすればするほど腹圧が上がれば最高だよな」

この写真を見ながら、身体班の班員と談笑したことを覚えている。このことがヒントとなった。

「力を込める反対は力を抜くことなんじゃないか」

脱力というと、なんだか身体の中で力を消そうとしてしまうが、本当は力を身体の外に追い出すことなんじゃないか。身体の中の視点だと、力を抜くことになるが、身体の外から見ると、これは力を出すことになる。
力を身体の中から出す、という新たな視点の獲得であった。

試しに、丹田の中から外に力、具体的には気を出すイメージをしてみた。脱力しながら、力を外に出す。筋肉にほとんど緊張を感じられないのに下丹田が膨らんでいくのを感じる。

家に帰って動いてみると恐ろしく調子が良かった。さらに、前に発見した「球を回しながらシルクで磨く感覚」を用いた。外に出した気をシルクに見立てて下丹田を拭った。上手くいきすぎて気持ちが悪いくらいだった。

以来、脱力をかねて力と気を外に出す感覚を日常で使うと面白い発見があった。

全身から力を出す感覚を掴んだときのことである。
混雑した朝のホームを歩いていた。人波の中を歩いていた。何か、いつもと感覚が違っていることに気付いた。おそろしく気分が安定しているのだ。

いつも、雑踏の中にいるときには人にぶつからないようあくせく周囲の流れを伺わなくてはならないのに……。

不思議に思って景色を観察していると自分の動きに法則があることに気付いた。自分が出した気に他人が触れないときはまっすぐ歩き、触れるやいなや少し身体を動かして他人にギリギリ接触しない間隔を保っていたのだ。特に注意していなくとも自動的に距離を保っていたから、見知らぬ人に接触するというストレスを感じず、それが気分の安定に繫がったのだろう。

多分、であるが、出した気が「自分の身体の範囲を延長している」という感覚がある。親しみやすくいうと、「自分の範囲だ。安心できる範囲だ」という感覚だ。武器を使うときに気を纏わせると、自分の体の延長に武器があるという実感があってよく手に馴染む。それに、相手を拳で突くときに今までは相手の背面に向けて拳を突き抜くというイメージで突いていたが、今では相手の背後にまで気を通す、という意識で突くと体重がよく乗ってくれる。

それと、大学に入ってからの不調が改善された。大学に入るまでは身体が崩れにくかったのだが、大学で合気道の受けを取るうちに「相手の攻撃に合わせて受け身を取る」という反復行為でパブロフの犬的に、相手に攻撃されたときについ重心が浮いてしまうという反射が付いてしまっていた。合気道をした弊害の一つであって、なかなかこの問題は解決しなかったのだが、近い間合いに入った相手が自分の範囲の中にいるような気がしてなかなか姿勢が崩れなくなった。それに伴い、ガンガン相手の間合いに切り込むことができるようになってきた。

「周囲は自分のもの」という意識は以前に幾度か試していたけれど、なかなか武術的にものにならなかった。少しの意識の変化で、以前に出来なかったことが出来るようになるのは快感である。もっと、範囲を広げられないかなあ……。

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