僕の悩みは、ドラえもんが慌てるときに似ている。
一人で、落ち着いているときにはスラスラ出てくることがいざというときに出てこない。
「あれでもない これでもない」
ドラえもんはポケットに便利な道具をたくさん持っているが、慌てると傘やらヤカンやらトンチンカンなものを出してしまう。まさに宝の持ち腐れだ。
いや、トンチンカンなものでも出せるならまだ良い。最悪を想定するなら、焦ってポケットの出口に道具が詰まって何も出ないときがそれである。
そんな、ドラえもんでもやったことのない最悪を僕はやってしまう。
のび太くんにこう言われても仕方ない。
ブログに偉そうに能書きたれている僕であるが、引き出しをつっかえさせてしまう、ストックを渋滞させてしまうのだ。相手の攻撃に合わせてリアルタイムに「最高の返し」をしようと考えるあまり、技が出なくなる、悪くすると立ち止まって居着いてしまうのだ。多くの技を持っているはずなのに、その中から咄嗟にベストな技を選択できないことが僕の大きな悩みなのだ。
この悩みに関連する問題をあげよう。その問題は諏訪研でも結構な頻度で話題になる。それは「引き出し問題」という。これを説明するなら以下のようになる。
「状況に合わせて、リアルタイムに良質なレスポンスを引き出すこと」
ラップや落語といった、色々な分野、競技ごとに、実践者は自分の技をストックしている。そのストックを状況に応じて引き出せるようになるのがその分野での一つの到達点だと思われる。自動化の一種といってもいいのかもしれない。
大築立志「運動技術と運動技能」
数ある分野の中でも、弓道やボウリングといった環境変数の変化が比較的少ないクローズドスキルに比べて、相手という変数がこちらの裏をかこうとしてくるというオープンスキルの極地である武術で引き出しを自在にすることは高等な境地だと思われる。さらに、その反応時間はかなりの短時間だ。
少なくとも、僕の流派の師範クラスは全員、この境地に達しているように見える。こちらが攻撃するごとに返される反撃に一つとして同じものがない。毎度毎度、こちらの意表を突いてくる、換言すると、そのときの僕のフレームを破る技が飛び出してくる。
宗家なんて「動けば即ち技になる」レベルだとご自身を呼称していて、実際にそうなのだから凄まじい。どんな攻撃にも引き出しから自在に技を取り出すだけに飽き足らず、その技の効果が低いとみるやいなや効果が高い技に流動的に応用していく。技を受けた実感としては、あれよあれよという間に、こちらがどんな技をかけられているか把握する前に次々に技が応用されて気付けば地面に転がっている、といったものだ。
その境地に近づきたい……天衣無縫の境地に……。
そう思っていたところ、その糸口が稽古に姿を現した。つい一昨日のことである。
一昨日は、かなり実験的な稽古方法をした。まずはナイフを使った推手だ。
推手とは目をつむることで触覚を鋭敏にさせた上で、相手と手と手を接触させることで力の流れを感じて相手の力の方向を逸らしたり、返したりするという稽古だ。
太極拳推手
普通は手でやるものだから安全なのだが、皮膚と違って摩擦を感じにくいナイフをお互いに接触させて力の方向を読むというのだから心が休まらない。精神が疲弊した。
ナイフ推手が終わって次に、ナイフを持って襲ってくる相手の攻撃を捌いて制圧するという訓練をした。自分が得意とする角度、苦手とする角度がよく分かる。例えば、僕から見て右から振ってくる攻撃にはよく反応できるのだが、捻り気味に右ストレートのように突かれると弱かった。相手のナイフの角度に集中して反撃しつづけた。やはり疲れる。
さらには、ナイフを持って二人がかりで突いてくる。対多人数の基本である「集団の間に入らないこと」を意識してなるべく実践しようとした。二人の間に入らず、なるべく外に回る。すると、敵同士が邪魔となるため僕が相手するのは一人だけで済む。
武術には、片腕だけで相手を翻弄する技もあるため一瞬だけなら相手の間に入っていい。そう油断していたら、僕の片手では処理できない角度からナイフが奔った。寸止めされるが、かなり危なかった。視界を広くとって油断なく相手との位置取りを探す。その中で、一方向に回っていると、相手をしていないもう一方の相手に先を読まれて回り込まれることに気付いた。一つの相手を制圧しながら、もう一方が来る方向を見定めて歩法で方向転換をする。これも疲れた。
さて、ナイフを置いて素手で相手がかかってきた。疲れてボーッとしながら動くと、なんだかすんなりと反撃ができた。不思議と何も考えない方が上手い返しができる。ベストとまではいわないけれど、ベターなくらい。
「てきとーです」
以前に、師範がよくそう言いながら相手をしてくれたことを思い出した。そうか、てきとーがいいのか……。
そう思うことで二人相手が素手でかかってくるときも余裕をもって対処できた。考えながらやっていたときには詰まって出て来なかった合気道の技や八卦掌の歩法がスルスル出てきた。相手に挟まれているときに、一方の相手の脇を潜るようにするとちょうどその身体がもう一方の攻撃を遮った。あまり意識しなくとも効果的な技が掘り起こされて面白い。
合気道と八卦掌はやはり、対多人数でこそ映えるのだなあと実感した。
稽古が終わった後の食事で、久々にお越しになった講師の方と話した。たまに稽古に来てくださる方で僕が手も足も出ないくらいに非常に強い人だ(こういうとあまり強そうに聞こえないから表現に困る)。今回の実験的な稽古法の発案者である。
「一人稽古のときには色々意識できるのですが、相手を目の前にするとぶっ飛んでしまいます」
前回の記事で書いた「全身から気を出す」ことだって意識できたのは最初の数分だけで、すぐにフィーリングになってしまった。
「まあそうなるよね」
あっけからんと講師の方が言った。少し拍子抜けした。
「相手が格下なら意識する余裕はあるけど、強い人を相手にするとそうはいかないよ。今回みたいにナイフを持ってたり、複数人だったりしたら、もっとわけがわからなくなる」
そこで、前に講師の方が言っていた、「一人稽古のときでも複数人を相手するときに同じ意識でいられるように無心になる」という言葉を思い出した。なるほど、一人稽古のときにもわけがわからないまま動くことを訓練するのか。
と、ここで、先日のたいしょーさん(諏訪研の先輩)のラップについて院生の方が質問したときを連想した。たいしょーさんが、立っている人の全てを把握しているわけではないと言ったときだ。
「良いパフォーマンスをするというと、広い視野で意識がクリアな状態だと一般的に思ってしまうんだけど、たいしょーの視野は意外と狭いんだね」
あの日のたいしょーさんは調子が良かったそうだけど、わけがわからない状態でもあったんだろう。となると、引き出し自在の境地に立つには「わけわからない」のがキーポイントなんだな。
そう考えると、気持ちが楽になった。稽古では、普段意識していた歩法が自然と出ていたし、練度の高い技が出てきていた。「わけわからない」「てきとー」でも、意外となんとかなるのだ。自分の積み重ねを信じれば本番でも意外と累積が反映される。なかなかロマンチックな話ではないか。
また、一つの仮説が出来た。歩きが無意識に繫がるというものだ。普段の稽古では、一つの型を終わったときに立ち止まるが、今回は立ち止まらずに歩きながら攻防を行った。そのことが技の呼び水になったということは考えられることである。今後の一人稽古の課題になるはずだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿