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2014年11月8日土曜日

どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない

最近の気づきでもないけれど、僕の武術的理想について発散しようと思う。
その元となる武術観に多大な影響を与えた作品の話を最初にしようと思う。
中二病全開につき要注意。濃厚です。


……closing to ideal……

高一の夏。その作品に出会ったとき、瞬く間にその豊穣な世界観に魅了されて引きづり込まれていった。文庫本に換算すると、文章量だけで20冊に値する作品だ。読んでは寝て、寝ては読んで、一週間にも満たぬ期間で読破してしまったほど引き込まれた。

「Fate/stay night」というゲーム作品である。荒々しく筋をいえば、作者独自の魔術観の上で、魔術師や過去から呼び出された英雄たちが鎬を削りあうという内容だ。現在、二度目のテレビアニメ化が実現して放映されている。(それに焚き付けられて書きたくなった次第である)

語りたい魅力や哲学は様々あるが、今回は一つの光景に絞って言及しようと思う。

その光景が意識に刻まれて離れず、いつしか僕の武術にも反映されていた。それほど、当時の僕には鮮烈な光景だった。
緋い空の下に延々と荒野が続く。そこにまるで墓標のような寒々しさで無数の剣が連なる。

この光景は登場人物の一人の内側に広がる「心象世界」である。その人物は、剣を見ただけで内包される創造理念・基本骨子・構成材質・製作技術・憑依体験・蓄積年月の六つをほとんど完璧に読み取ることができる。そして、無意識の内にこの心象世界に連なる複製の一本に加える。

そういう特技を持っているおかげで、どんな伝説上の名剣も一目見さえできればコピーできるのだ。そして、戦闘の際には心象世界から数本を選んで魔術によって現実世界に顕現させる。

「ファンタジー世界なら、どんな名剣でも使えて最強じゃん。草薙の剣でも頑張って見て作れば?」

こういいたくなるところだが待ってほしい。あくまでも複製であるせいでオリジナルからワンランク落ちることと、強い剣を作っても本来の使い手ではないため性能の100%を引き出せるわけではないという二つの理由から簡単に最強にはなれない。千の90を持っていたところで、一つの100を持つ相手には一点突破されてしまうのだ。

だから、この人物は勝つために策を用いる。

例えば、ギリシャ神話のゴルゴンと戦うとしよう。伝説では視線を合わせるだけで人を石化させてしまう強力な怪物であるが、どうにかその正体を看破してしまえばこの人物にとって打ち破ることは難しくない。
鏡を持って近づくことで視線を受けないようにして、ペルセウスが使った首刈りの鎌であるハルペーを振りかざせばいいのだ。

つまり、①正体を看破する②正体に秘められた弱点を見抜く③弱点を突くための方策を用意する。

この三ステップを踏むことが策である。どんな英雄だろうと何かしらの弱点はある。それがゴルゴンほどあからさまに致命的なものでなくても、手をかえ品をかえて弱点だけを攻め続ければ勝つのは容易な作業となる。

……now adapting……

これでようやっと、僕の戦略の話に繫がる。賢明な方なら、おぼろげながら「世界」についての記述を思い出すのではないだろうか。

「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

如何に相手の流派の「世界」の真価を殺して、自分の「世界」を活かしその土俵に引き込まなければ勝てないのだ

この記述である。石化の視線を持つゴルゴンに対して、鏡を使うことが前者、弱点となるハルペーを心象世界から引き出すのが後者に当たる。

ここまで書いて、宗家が以前に零していた言葉を思い出したので引用する。

「あるとき、舞踊の先生に、君は本当に強いのかと聞かれたときに困ってしまった。なぜなら、自分が強いのかが分からなくなってしまっていた時期だったからだ。

相手の弱点を徹底的に攻めて勝つ方法を自分は確立したため、勝つことは容易になった。しかし、それが強いことに繫がるのだろうか。

何十年と武道を修業した人は強いだろう。だが、その人やその人が修めている武道の弱点を徹底的に突く方法を教えてしまえば、たとえ武道歴のないズブの素人でもその人を倒すことができる。

勝つことはできるが、それがイコール強いということなのか。そもそも強いとは何か。自分でも納得が言っていなかったため、自信を持って自分が強いと断言できなかった」

僕も全てを教授されているわけではないが、僕の流派では他流破りの方法が確立されている。その全てがオリジナルというわけではない。宗家自身が「うちの流派はパクリ流派」と公言されているように、その方法は他派が他派を破るために研究した方法も多分に含まれる。

「うちのコンセプトはジークンドーと似てる」

とも言っている。ジークンドーとはブルース・リーが創始した流派で、「型に嵌らず、使えそうなら色々な他派を取り込んで良い」というコンセプトを持っている。

同じように、僕の流派は様々な他派を取り入れて構成されている。

メタファーでいうなら、先ほどの心象世界の剣の一本一本が他派の流儀であり、技である。ナルトのカカシじゃあるまいしそんなに簡単にコピーできるものなのだろうか、そもそもコピーして戦うなんて戦法はよーりの勘違いじゃないのと疑問に思うかもしれない。その問いは僕の流派が持つ「世界」の入門が答えているように思う。つまり、「優れた身体」を作るための基本が指し示している。
「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

「脱力することでバラバラに分割して動かせる、また、自在に協調して動かすことのできる身体」

この身体は、骨や筋を柔軟にして寸断したのちに練り上げることで出来る(そのためのメソッドが多くある。ここでは割愛)。この身体を作るとどうなるのか。

この身体が実現すると、どんな技でも一定以上の水準で再現することができるのだ。
宮本武蔵『五輪の書』
リンクは僕が執筆したコラムである。引用する。

剛体から柔軟への変化は出来ない一方で、筋肉の締めを応用した柔軟から剛体への変化が可能であることも、柔らかさの可能性の一つである」
強ばって全体がコチコチだと固い技しか出すことができない。脱力した技を使うことができない。対して、柔らかであれば、脱力した技も固い技も自在に使い分けることができる。

再現するためのハードがある。ならば、再現するためにソフトとなる技の原理を見抜く眼力を用意したいところだ。見抜けばコピーも容易である。そして、「読み」が僕の流派では重視される。読みが全てと言われるほどだ。

現実に宗家は人の構えを見れば、修めている流派はもちろん、擁される原理や応用までも見抜いてしまう。技もそうだ。一度見たら、オリジナルの人よりも上手くこなしてしまうこともある。さらには、その構えと技を破る方法もどこからともなく引き出してしまう。だからこそ、弱点を見つけ出して攻め続けることができるのだろう。

元々がジャグラーであって映像でジャグリングを修めていたため、僕は真似をするのがまあまあ上手な部類であると思っている。独学で武術をしていた期間でも真似をしていた。しかし、宗家はもちろん師範の真似力には全く劣る。なぜだろう、とメタファーからフィードバックすると相手を真似る糸口が少し見えた。(フィードバックを得られるまで自分ごととして本気で捉えることがフィクションを娯楽で終わらせない鍵だと思っている)


①創造理念=技が生まれた背景
②基本骨子=技の原理
③構成材質=身体つきや仕草
④製作技術=どういった練習方法をするか
⑤憑依体験=どうやって応用するか
⑥蓄積年月=技がどれだけ古いものか

あくまでもメタファーに当てはめたものであるため実際はもっと多いかもしれないが、これが僕が立てる眼力の内容の仮説である。例えば、合気道の四方投げを例にとる。
https://www.youtube.com/watch?v=MhKN0I8gLu8

まず、足下を見るに、シュモク足になっている。
足をハの字に開いて拇指球に体重を載せる構えである。足先の方向を揃える剣道とかなり対比的である。これは発祥した状況が違うためその中で技術が洗練された結果である。剣道では一対一の稽古が多いため前後に動きやすい足先揃えとすり足が残った。

対して、⑥合気道は対多人数を想定した古流剣術の流れを組む。多人数で入り乱れるときには四面から来る敵に相対するために素早い方向転換が必須となる。撞木足はそれがしやすい。右の拇指球に体重をかければ左を自然と向くし、左は逆である。すなわち、剣道は竹刀での一対一稽古が主流となった江戸後期に発祥したのだと分かるし、①合気道は対多数が当たり前の戦場や喧嘩で培われたものだと分かる。

合気道の足を見るだけで多くのことを読み解くことができる。さらに、④稽古に乱取りがあるはずだと分かる(実際は流派による。富木流や西尾流、養心館といった実戦主義を唱えるところは当然採用している)。また、方向転換が容易ということから回転系の技を多用すると推測できる。つまり、その足から出される技の原理を類推できる。②だ。

足の他に身体つきや仕草などもある。本気でその流派をする人は自然と「優れた身体」になっていく(そうなっていない人の技は効果半減)。逆説すれば、身体つきと仕草からどんな流派なのかを見てとれる。合気道なら姿勢が正しく、重心が低く、滑るように移動する。呼吸が深く、目配りが広い。

合気道の特徴を知っていればその条件に当てはめることができるし、知らなくともいくつかは分かり、そこから類推して補完することができる。①〜⑥は連環しているからだ。

……now watching……

こうようにして眼力で読み取ったことは、他派破りにはもちろん、自分の複製技術の向上にも繫がるはずだ。①〜⑥をより詳細に読み取ることができれば、自分の技のチェックや意識に活きる。

長くなったが、一目で相手のスタイルを見取った上で環境に応じて弱点を突くような技術を自分の中から天衣無縫に、しかも高い練度で引き出すのが僕にとっての理想である。

そのために眼力、読みをどうすれば高めることができるのか……。やはり、メタ認知が必要なのかもしれない。写真や動画で高いレベルの他派を見てどんなことを感じるのかをメタ認知する。語ることで、これからの課題がはっきりした。


さて、「世界」と武術の繋がりについてまとめたい。

以前にも語ったがそれぞれの流派には「世界」がある。読みの技術はその「世界」を①〜⑥の観点から読み解くものだと言えるだろう。読み解いた上で、複製するなり、弱点攻めに利用するのだ。

先述の宗家の言葉ではないが、強さとは何かを尺度にして測るものだと思っている。それは絶対的なものでも普遍的なものでもない。大きさを測るには何かを比べることが必要だし、それを比べる物差しも様々あるからだ。だから、「強い」といったときにはその「世界」という物差しの中での到達点を指しているのではないか。そういったフレームの中で競争しあって洗練されて「強く」なるのだ。
そして、どんなフレームだろうと、フレーム同士を比べることはでない。フレームとは構造主義的に自己完結した完成した「世界」だからだ。文化と文化を、例えばキリスト教とイスラム教のどちらが素晴らしいかを比べることはできない。そして、武術も文化という構造なのである。身も蓋もなくいってしまえば、「武術は相対的だよね。どの流派もみんな違ってみんな素晴らしいよね」ということになる。

したがって、同じ流派内なら「強さ」で簡単に個人同士の優劣がつく。

その一方で、違う武術同士が戦うときには価値観の違う「強さ」をぶつけあうため、勝った方が「強い」と断言することはナンセンスだ。しかし、「強い」かはともかく、勝つための手段を講じることはできる。

他流と戦うときに勝利するポイントは何か。それは、フレームという構造がどうしても内包してしまう構造的弱点(盲点と言い換えてもいい)を突くことだと考える。日本家屋なら、屋根にのしかかるのではなく、支柱を折るようなものだ。強いところを攻めても持ちこたえられてしまうが、弱点を突けば自ずと崩壊する。
相手のフレームの弱点を徹底的に突き合うのが、流派同士の戦いなのである。そのときに必要なのは、自分のフレームの中だけの「強さ」ではない。自分のフレームを熟知してその弱点を隠しながら、相手の弱点を見破って、即座にそのための方策を創出するという「上手さ」が必要なのではないか。

ここに至って、僭越ながら僕は宗家のことばに答えを出すことができる。つまり、僕の流派で重視されるのは他流を破る「上手さ」であって、自流の中での「強さ」を目指さないのだ。僕が理想とするのは「最強」ではなく「戦上手」ということになる(勝手ながら、腹オチした)。

といっても、この「他流を破るための上手さを目指す」と主張した瞬間、そこにはメタな構造、「世界」が生まれるから、これも弱点を内包するに違いない。

それでも、相手の構造を見破り自分の中から剣に見立てた技を引き出して変化させるという構造しか僕にはない。もはや、この「小さな世界」しか僕に極められるものはない。

「小さな世界」を探検することで弱点を見つけつつ、ときおり、技を磨くことしかできることはない。

いや、欲を付言したい。

新たな説を作れば、それを否定する「他者」が必ず現れると現代哲学は発見した。僕はなるべく「他者」を探してそれすらも「世界」に取り入れたい。それが進化の鍵だから。

今日も僕の「世界」をひけらかしたところで、筆を置く。中二病で失礼。

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