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2014年10月2日木曜日

磨けば光る。神聖な光を帯びる

武術を汎化する「よーりの世界」で発見したものを報告します。


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話は塾で日本史を教えたときに遡る。つい先週の話だ。弥生時代について教えていた。それは、かつて教科書で覚えた文言を生徒に伝えたときのことだ。

「青銅器は実用より祭るときに使われたんだよ」

生徒に講義を続けながら、僕は自分で零した言葉に衝撃を受けて内心にさざ立った波紋を追っていた。

政(まつりごと)とは祭り事だ。それはよく知っていた。祭りは、憩いのときである前に神の啓示を聞く意味合いを含んでいる。政治とは何かが頭になって国の全体を動かすものだ。現在の日本の民主主義では国民が自分を動かしてくれる頭を選んでいるとわけ。古代ではバビロンだろうとギリシャでも中国でもシャーマンが「お告げ」を聞いてそれを政治に反映していた。卑弥呼だってシャーマンだった。日本の原始神道もその流れにある。

神道の神輿が何を戴いているのか。担ぎ手たちは自分たちが何を祭り上げているのか分かっているのか。

それは鏡だ。神社の中心に鎮座している鏡を運んでいるのだ。なぜ鏡が本尊なのか、神鏡と呼ばれるのか。それは天照大神の化身だと考えられた太陽を鏡が反射する姿が太陽の代わりに見えたからだと言われている。そして、発掘された青銅器には銅鏡がある。

僕が受けた衝撃の源は、神の代理である鏡が弥生時代に銅鏡として端緒を発していることを突然に理解したことにあったのだ。

そうだ、と僕は思考を続けた。弥生時代の儀式には銅鏡のみならず銅剣も使われていた。三種の神器の内の二つが揃っている。三種の神器の共通点は何か……。以前に武術の師匠が仰っていたことをふと思い出した。

「日本刀は美しいでしょ。何でかというとそれは磨き込まれているからなんだよね。

自分でも日本刀を研ぐことがあるけども、研ぎの作業は非常に大変だ。でも、ただ実用のことだけを考えるとそんなに入念に磨き込まなくてもいいんだよ。

徹底すると神聖さが宿るから磨くんだろうね。三種の神器にも共通しているよ。剣・鏡・勾玉、すべて磨き込んで作るでしょう。

神は磨きに降りるんだ。そう考えると、日本刀は磨くから日本人の魂を引きつけて離さないのかもねえ」

天照大神の姿に見えるから、という説明より、鏡は磨かれることで神に適ったというシンプルな考えに強い力を再び感じた。

講義が終わり、僕は家で独り稽古をしていた。自分の身体に磨けるところがないかを探しながら。師匠の言葉を「男を磨け」なんてつまらない抽象論にしたくなかった。動きの中で磨くところはどこか。このときのために用意されていたかのようにすぐにそれは身体に装填された。

「全ては虚実の球とその関係性で出来ている」

先月に到達した考えだ。太極拳の目的である「宇宙の法則を体現する」という概念がある。

それに対する僕なりの解答の一つが“球”である。

電子のスピン、原子核を回る電子たち、地球の自転と公転。ミクロからマクロまで世界のありとあらゆる場面に球は跋扈している。

虚実と言ったのは簡単で、地球の自転のように実体のあるもの自身が回ることを実、公転のように回転軸が虚空にあって透明な球を形作ることを虚と言っているだけだ。

後はこの球たちがどんな位置取りで、どういったタイミングで動き合うのか。それらが宇宙の法則なのではないか。太極拳はもちろん、武術の多くがこの“宇宙”を体現する手段となる。

そして、僕は「球を磨こう」という考えに至った。

身体の中には数多の球が存在している。身体に球のイメージを装填する。手首、肘、肩はもちろん、肋骨だってドーム状をしている。全てが球だ。360度とまではいかないが自由に回転させることが出来る。

試しに上半身の球をゆっくりと、鉄球をシルクで拭うように回してみる。非常にぬめらか(ぬめる+滑らか)だ。途切れずに無理なく連動している。粗を消すために速度を落として動きを反復確認してから、速くする。ブルっと震えて捻りが末端へ伝わる。とても可能性を感じさせた。

おそるおそる身体で最大の球に目を落とした。丹田だ。背骨と足、つまり上半身と下半身を繋ぐ身体の中心、ドンといっても過言ではない。丹田の基盤である骨盤はお椀型。非常に球のイメージとの親和性が高い。

一体、彼を磨き込むとどうなってしまうのか……。

また、今は実球だけを磨いているが、空間に描く虚球を磨くといったいどうなるのか……。

今発表するのはもったいない。長文に読者も疲れているだろうし。だから目下、研究段階であると言わせてもらう。

「あらゆる球を磨いて神の域に行きたい」

終わりによーりが遺す抱負である。

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