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2014年10月27日月曜日

「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

世界は決して僕を、ひいてはあなたを飽きさせることはない。今回、最初は少し武術から離れたところから始めますが、最後には武術に立ち返るのでご心配なく。

常々、「世界を作り、そこに人を引き込むことに没頭している」と触れ回っているよーりがその思考に至るための起源を解き明かします。

なぜ、Yoriの前にWorldを付けるほど「世界」を重視するのか。その理由を本邦初公開。必見です。

……now being absorbed……

「作った世界に人を引き込む」と僕が意気込むようになったきっかけは幼少の頃にある。引き込もうとするのは、僕自身が幼少の時期に「世界」に引き込まれたことが端緒だ。

それは、いつだったろう。少なくとも武術との出会いよりも前だ。武術の必要性に駆られた最初は小学3年生だったが、本物の武術を探究するようになった時はずっと後だったから。

そう、出会いというなら本という「世界」が先だった。確か、小学3年生の時分だったはずだ。今年で僕が22歳になるのだから、13年前ということになる。人生の半分以上前だ。この記憶には薄く霞がかかっている。

それでも、霞がかかっていても、この記憶は死ぬまで覚えているだろう。それほど僕の根幹が生まれた出来事だから。

どこかのデパートに両親に僕が連れられてきたところからその記憶は始まる。

特に僕が買い物をするわけではないからその頃はデパートというと、玩具屋に行って新製品を見物でもしない限りは暇で憂鬱だった。退屈のねっとりとした緩慢さをありありと思い出せる。

それでも、子供の身分として親から離れることは、ロッククライミングで命綱が切れることくらい等価値であった。親が視界から消えることは即ち自分の迷子を意味する。迷子は、「自分は家に帰れるのかしら、誘拐されないかしら」と多大な不安をもたらすので当時の自分は不得手にしていた。

エスカレーターからの景色の中の何かに目を惹かれたのか、階を上がるべく踊り場でターンするはずの父親が突然、方向を変えずに直進した。降り立つ予定のない階の地を踏みしめた。父が興味を向けるからといって僕も同種の興味を持つ道理はない。

しかし、大して食指が動かなくとも前述の理由でオリマーが育てたピクミンの如く後を追う必要があった。必然として僕も連れ立つことになってしまった。父はエレベーターの傍に位置する書店にずんずん近寄っていった。

今と違い、当時は一般に普及していなかったPCについての雑誌コーナーに立ち寄って品定めしていた。特にめぼしいものがなかったのかグルグルと書店の中の回游を始めた。当然、僕もグルグルと付いて回った。

今思えば、金魚の糞以外の何者でもなかった。

オリマーの真似事に飽きたのか。書店の出口近く、つまり、デパート内の通路に面し、新刊本が鬱蒼と平積みされた机に父は立ち止まった。一目して、ある一つの本を手に取った。おそらく、最も目立つものを無造作に選んだに違いなかった。

「これなんかお前に良いんじゃないか」

厚い本だった。今考えると、厚い本を読破する経験をしてほしかったのかもしれないが、当時の自分には鈍器、恐怖の対象の他に移らなかった。同じファンタジージャンルであるハリーポッターよりも数段厚い。

その名は「崖の国物語」。絵は、子供が慣れて親しいアニメ調でなかった。自分では震えて引けないだろう繊細な線が木の年輪のように細かくうねって重厚な絵をなして表紙を飾っていた。

その見慣れない絵の雰囲気にどこか「ガイコク」を感じていた。
一旦意見を決めると強引な気質の父は、僕の意見を聞かずにこの本をさっさと買って僕に与えた。その日、帰宅して早速読むか、という気持ちにはならなかった。

自分で選択したものではない、親といえど人から与えられたものを素直に易々と、率先して読むことを僕の幼い矜持が許さなかった。

家の本棚の隅の暗がりに放置して数ヶ月が経った。学校から帰ってするゲームもなく(周囲がゲームボーイアドバンスで遊ぶ中、僕の持つ携帯ゲーム機はモノクロのみを映す初代ゲームボーイが唯一だったため、友達と対戦に興じるために腕を上げるなどというモチベーションがなかった)、手持ち無沙汰になってしまった。

そこで、家の探索をすると以前に買ってもらった崖の国物語を再発見した。そこで「自発的に」その本を読むと、選択し直したのだ。

他者から強制という頸木(くびき)から外れて自由気ままに読みふけった。その結果、引き込まれに引き込まれた。自由が過ぎて肉体から自分が物語に入り込んだ。主人公、トウィッグに自分が乗り移ったようだった。

深森に迷ったときには僕も不安になり、その中で不思議な生物に出会ったときには好奇心と恐怖心が煽られた。初めて本で感泣したのもこのときだっけ。森の中で出来た初めての心優しき友達、オオハグレグマと死別したときの悲しみは心の深いところに未だ残っている。

読み終えて放心する日々が続いた。何度も読み返しては放心した。小学校の帰り道で続編を見つけたときは帰宅してから母親に必死に小遣いを求めた。そうして、買って読み込んだ。初巻の舞台からさらに巨大に広がった世界にまた放心した。想像の中で別の世界の広がりを追っていた。

「世界」に飛び込むことが麻薬的に楽しいと僕に刷り込んだのはこの原体験だ。その魅力に病みつきになってしまい、その2001年の末に映画化されると評判になった「ハリー・ポッター」に手を出して面白さを再確認したのだった。

そして、目についた本を両親に買ってくれとねだる困った子供になった。ハリー・ポッターの次はダレン・シャンだったか。

小学校高学年になって受験勉強が始まっても、楽しみは続いた。続いたというと現状維持に聞こえるが、お小遣いを定期的にもらえるようになって密かに買い込んだため読む量は日増ししていった。行為の秘めやかさ、後ろ暗さがますます人間を趣味の虜にすることはあなたもご存知の通りだ。

僕だって例外でなかった。塾の宿題を済ますはずの夜の時間に自分の部屋で本を取り出し、舐めるように文字を追った。ただし、世界に没頭しても僅かに周囲を警戒する余裕は残しておいた。部屋の入り口に迫る足音を機敏に察知するためだ。その巡回の音がいよいよ差し迫ってきたなら、ドアノブが軋むと同時に本を一瞬にして教科書の下敷きにし、何食わぬ顔をするためだ。

不良小学生がそこにはいた。勉強机の表面に散らかる消しゴムの粕の分布が濃くなっていないことからこの悪行三昧を看破されて怒られることもしばしばだった。

これが、僕の「世界」との最初の出会いだ。ちょっと小休止。

……now loading……

小学生のとき、本を読んで終わりにするのではなく自分があの世界に入ったらどうするだろう、完結したこの作品の続きはどうなるのだろう、と物語を空想することも趣味だった。文字を手書きする速度が極めて遅かったため、その空想は書き留められることがなく発散されてはすぐに忘れ去られた。

空想を書き留める、というパラダイムはアナログからデジタルに移行してやっとなされた。

書き留める手段はPCではなかった。ブラインドタッチが出来なかった当時の僕にとって、父の部屋に蹲居したデスクトップのキーボードはピアノの鍵盤と同じく未知の羅列であったからだ。

携帯電話のアクセス制限が中学生で解除されて、携帯小説サイトを閲覧できるようになった。僕は三列かける四列のボタンの上で必死に親指を往復させることで拙い文章を綴った。そうして作った携帯小説なるものをそのサイトに投稿することにすぐ夢中になった。

今読み返せば赤面ものの出来だったが、これが空想の書き留めの始まりだった。

基本的に自分ならではの発想が貧困だったので、オリジナルの小説をついぞ書くことはなかった(それの決行は大学になってやっとなされたが)。自分で試しに書き殴ったオリジナル小説の世界が、僕が愛した過去の本と比してあまりにも浅薄、薄弱、矮小すぎたからだ。書いている間は楽しかったが、翌日、興奮から醒めて目にすると読むに耐えないものだと分かってしまった。得意顔になって投稿した「自分の世界」に他人が辛いコメントを付ける姿を想像して恐怖に震える手で全て削除した。

だから、当時の僕が書くとすればそれは全て二次創作だった。二次創作とは、オリジナルの作品、つまり、一次に創作されたものの世界観を延長して書くことだ。文章ではなく漫画であるが、有名な二次創作品を例となると「ドラえもんの最終回」が思い浮かぶ。
【同人】ドラえもんの最終会

二次創作の何が面白いかと言うと、どこまでやっていいかが分かることだ。換言すると、「その世界の果て」や「世界の構造」が分かる。かつて、福田研の有志で刊行されていた雑誌「モンスーン」に「ジョジョの奇妙な冒険」で高名な漫画家、荒木飛呂彦が語った運命論が近いと大変共感したので引用する。

「(インタビュー当時執筆していた漫画には)『やっぱり人間って運命にしばられてるのかな』ってのがあるんです。マンガを描いてるとわかるんです。主人公を想定して、その主人公が新宿に来たとすると、その後どうするのかは一見無限の可能性があるように思いがちです。

でも主人公に動機づけとか性格とかがあると、もう決まってくるんです。たとえば東京駅に敵が居たり、愛する人が居たりすれば、主人公はわしが考えるまでもなく、もうそこに行くしかない。そうすると『あ、運命ってあるんだな』って創作してると分かるんです。」

二次創作を書いているときには、この「運命」というものを強く感じる。ただ読んでいるだけでは分からなかったが、書いてみると登場人物たちがどんな変数を備えているか、また着目しているかを考えなくては勤まらなくなった。

なぜなら、把握しない限りは、自分が書きたい展開通りに人物が動かないのだ。「運命」が邪魔をしてくる。それにどこまで把握すれば安心か分からない。ある人物が人物Aといるときと人物Bといるときで性格の側面が柔軟に変化して無限にも思える様相を見せてくるのだ。

分人主義に近いかもしれない。その側面を発揮する環境である「世界」の中の変数を上手く整えることでやっと書きたい方向に進める。把握の深度を追究しつづけなければ完結しない一大作業なのである。まあ、大変だろうと、そうやって書いた作品に人が引き込まれてくれることが承認欲求の点で無上の喜びとなるために、ついつい続けてしまうのだが。

借り物の「世界」ではあるが、「世界に人を引き込む」楽しさに味を占めることとなった。この体験が今の僕の活動の根っこにあるのだ。

さて、「世界」の変数を把握する方法について語る。僕の方法は、
①同じ作品について稚拙だろうと我慢して繰り返し書くことと、
②その作品の他の二次創作を読むこと、そして、
③その上で一次作品を何度も読む込むことだった。

非常な遅筆だったので、1対49対50の割合だったろうか。
①をすると、自分の作品で不足している領域をハッキリと自覚できる。
②は、他者がどうやって「世界」を整えて人物を誘導しているかの参考になる。二つを繰り返しながら
③をすると、元の世界の理解が深まると同時に自分の創作がそこから外れていないかという確認が取れる。

このサイクルの中で「世界」の空気が身に染みていった。結果として、その物語の「世界」に慣れ親しんだ思考で別の物事を書こうとすると、二次創作を書こうとしたわけではないのに全てがその作品に関連したものになってしまうのだ。

……now loading……

時は現在に帰る。ある「世界」に遊ぶとその思考に染められて、行動も自然とそこから波及したものになってしまうことは今、言及した通りだ。この方法は僕にとって、ある体系化された分野を学ぶためパタンランゲージとして今なお最大のものである。

例えば、諏訪研での学びもそうだ。SFCに入学して初めて受けた先生の授業である身体科学を受けたときには研究内容がまさかこんなに深い体系だとは思いも寄らなかった。

しかし、続けて先生の他の授業を取り、研究会に入って学びを続ける内に、重要概念同士にリンクが飛び交うようになる。すると、段々と明度が上がって全貌が見えてきた。どこまでいったら全貌といっていいのかは分からないが……。
諏訪研の「学んで実践し議論し……」というプロセスサイクルがよく僕のパタンに合っているのも一つの理由だろう。研究会で学んだことをグループワークで議論し、他のグループで上手いと思った解釈からも諏訪研が大事にする変数を読み取る。受け取った変数をプロジェクトに応用して学びのサイクルがさらに回る。

そうして、諏訪研という「世界」が身に付いていった。他にもある思考のベースに融合する。僕が思う「世界」から諏訪研を汎化させて語っていることが融合の証左だ。

研究会内での発言も、「これは諏訪研的に面白いはずだから言ってもよかろう」と徐々に自信が付いてきて際どいことが口から飛び出してきた。諏訪研に親しんだことで自ずと諏訪研的な行動をしていることに気付くこともしばしばだ。

さて、武術は「世界」に一層相性が良い。やっと本題に入れた。糖分が足りないのでチョコを装填します。

……now eating chocolates……

一般的に、格闘技や武道で「優れた身体」というと、プロの世界でもない限り、かなりハード寄りの発言だと認識されるのではないだろうか。マラソンなら遅筋の割合が多くほっそりとして肺活量がある。短距離なら、速筋があり柔軟性が高い。もちろん、優れた身体も競技ごとに差異があるだろう。

しかし、良い身体の意識といった、ソフトとしての身体が競技ごとに明確に声高に叫ばれることはあまりない。あっても野球で「キレのある身体」と聞いたくらいだ。

武術にはソフトしての「優れた身体」の要求が厳然としてある。
図は太極拳の基本姿勢についてである。球を含めるように胸を丸め、背中の力を抜いて張るのが含胸抜背。尾てい骨を真っすぐ下に垂らして姿勢を正すのが尾ろ中正である。この他にも姿勢で守るべき条件は軽く十を超える。

ちょっとした動作でもその条件の一つ一つをクリアすることを堅苦しく思うかもしれない、学ぶのに地味で面白みのない姿勢を飛ばして動きがあって楽しい型や技を学びたいと思うかもしれない。

だが、この基本を抜かすと後に学ぶ型といった技術は全て徒労に終わる。太極拳は姿勢という入り口から既に実戦でどのような戦術を使って自分を守るというゴールへの道を見据えているのだ。

太極拳での「優れた身体」とは、「脱力した上で真っすぐ安定して、いつでも勁(筋肉が単体で生み出すものでなく、正しい姿勢から生み出される力)を丹田で生んで身体のどの箇所からでも発することができる身体」である。この姿勢が太極拳の優れた戦術を発揮する。

「相手の攻撃に身体を接触させることで相手の体内の力みを感じて打つ」のが戦術だ。自分は脱力していることで接触点から自分の力み、即ち予備動作を読ませない。パンチといった一般的な打撃だとテイクバックや相手との距離が必要である。テイクバックでタメを作ってから、相手との距離を通して拳といった打撃に使う箇所を加速させる。

だから、相手との身体に接触してしまうことで距離を零にして、相手にテイクバックをさせる余裕を与えず攻撃を断つ。もちろん、相手が攻撃できずこちらもできないとなれば膠着してしまう。

だから、「いつでも勁を生み出せる」必要がある。太極拳を学べば、零距離から即打撃を発することができる。つまり、接触さえしてしまえは勝ったようなものである。

この戦術の根本となるのが、「脱力した上で真っすぐ安定して、いつでも勁を丹田で生んで身体のどの箇所からでも発することができる身体」である。この「優れた身体」の感覚を養う手段が先述の姿勢の要件であった。安定した姿勢を培うことで、安定して長く勁を発して相手の内部にしっかり浸透させる砲台になりうるのだ。

先日の身体班で実演したが、力みのない身体から力が発せられると接触点からいきなり強い力の波が出てきたようになって非常に混乱するものになる。

逆説すれば、各流派で唱えられる「優れた身体」を用いると必然的にその流派の戦術を使うことになる。先の「世界」の考えと非常に似ている。太極拳で優れた身体を身につければ、振る舞いが全て太極拳になってしまう。太極拳の「世界」が身に沁みるのだ。先日、祖母の家に行ったときに荷物運びを手伝ったところ、祖母にこう言われた。

「まるで、踊りのようねえ」

僕が荷物を運ぶ動作を踊りと称されたのだ。太極拳の安定した身体を身につけて動いたためにその様子が流れるようになった。そのためにこう言われたのだと勝手ながら認識している。特に太極拳的に動こうとしてはいないのに、太極拳になるという根拠ではないか。

僕の師匠はweb上で10年近くもブログを書いている。膨大な分量があるわけだけれど、僕は今、それを読むこと二周している。思考に自然と流派の考えが沁み込んだ。おかげで流派でする稽古に本質的な意味付けをできる。

その上で稽古に励むと実践と気づきのサイクルが累積的に回転を上げて唸りを上げる。すると、ブログを読むだけではなされなかった気づきが生まれる。つまり、流派という「世界」に埋没していく。無限に世界で戯れることができる。

これが、本記事で僕が最も言いたいことだ。「世界で遊ぶ間は無限に楽しむことができる」。これは、文章、研究、武術から帰納することができるし、ほとんど全ての分野に敷衍することができる考えなのではなかろうか。

こうしたバックグラウンドで僕が生きているという前提を語らないと、ブログで言える主張に限界ができるのではないかと思って書いた次第である。生き方の問題でもあるので長文になってしまうのは容赦願いたい。

文章と「世界」の親和性はもはや言うまでもないが、僕が武術から抜け出せないのはそこが極めて「深くて広い世界」だからである。トウィッグが深森に入ってしまった心持ちだ。好奇心と恐怖心、そして感動の連続なのである。

最後に武術が如何に「世界」の考えと親しいかを残して終わりにする。

太極拳の例で一つ一つの流派に「世界」が漲っていることは説明した。それぞれの流派世界があり、修業者はそれらを探索している。それはいいのだが、自分の流派の中にだけ視線を落として思考のフレームを広げないものが多くて困る。別に修業者は同門の中で戦うことを本義にしていない。自流の大会で上位になることのみを考えてはいけない。流派が戦うものは他派なのだ。武術を学ぶものは自流だけでなく他派の研究をするのが自然である。

つまり、他の「世界」を研究することになる。太極拳の例で出したように、如何に相手の流派の「世界」の真価を殺して、自分の「世界」を活かしその土俵に引き込まなければ勝てないのだ。

「武術は実戦性を示すために格闘技のリングに上がるべきだ」

という主張をされても、現代の達人たちがリングに上がらないのはこういうわけだ。

「どうしてわざわざ相手に都合の良いルールで保護した土俵であるリングに上がらなければいけないのか。そんなことをすれば、必ず負ける」

これが答えである。自分の流派という「世界」に埋没してその把握に努めながら他派という「世界」から相手を引きずり込むことを虎視眈々と狙うのが武術修業である。「世界」から武術をこう語ることが出来るだろう。自分の「世界」だけでなく無限とも思われる他の「世界」をも把握しようとするから、武術という「世界」は広大なのだ。

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