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2014年10月23日木曜日

相手の可能性を殺す。武術で大切な三つの「先」について

武術は死活を根源にする。よーり、活きてます。

……now reviving……

いつも僕は対の先で行動を起こしていたが、後の先を意識するようになるきっかけがあった。……はい、まず先について説明しないといけませんね。


日本語には「後手後手」「後手に回る」という言葉がある。

ご存知の通り、この表現は主に悪い意味で使われる。相手が何か行動を起こしてからそれに気付いて対処を考えるのは遅い。特に武術ではまさに死活問題になる。相手の攻撃が始まったという事実にコンマ数秒後に気付いたときには対処が間に合わず、当てられてしまうからだ。

もちろん、その攻撃が素手であってなおかつ急所から外れれば、体で受けてから反撃が可能かもしれない。筋肉の鎧があればなおさら可能性が高まる。しかし、相手が真剣といった武器を持ったならどうだ。後手に回れば、急所に当てられないどころか幸運にも咄嗟に素手でガードが出来たとしても致命傷を負ってしまうかもしれない。

だから、武術は必死にどうにか相手から攻撃の予兆を感じ取って、その「先」手を取ろうと探究してきた。

その中でも、日本武術による探究は目覚ましい。おそらく、日本武術は世界最高級の切れ味、殺傷性を持つ日本刀に対して護身をしたからだ。素手で受ければ切り裂かれてしまう。

だから、最高の回避をして先手を取ることに集中した。そこで、日本武術は3つの「先」を見つけ出した。武術の教養として、まずその3つについて説明する。出典によって多少意味が変わってしまうが、概ね以下の意味である。

先の先:相手が攻撃する前に思う「攻撃しよう」という気持ちを察して、攻撃に行動を移す間隙を衝いてこちらから攻撃する。

相手の脳波を察知して攻撃を仕掛けるのだ……という人もいるが、僕はそれに懐疑的なのでもっと物質的な方法を使う。ベンジャミン・リベットという学者が1970年代にした実験で人間の意識と行動の関係が驚くべきことだと分かった。その実験結果は「人間はこうしよう、と思った0.5秒前にその行動に向けて身体が準備を始めている」というものだ。

意志が行動を生むという常識とは反対の結果である。これを元にして考えれば、相手の攻撃しようという思いの前になされている身体の準備を読んでこちらから仕掛ければ先手を取ることができるだろう。

しかし、起こりは起こりでも微小なものであるため、僕がそれを読めることは稀。成功すると、「手も足も出ない」「反応できない」という感想を持つ(というか成功されたときに僕がそう思った)。

「…来た!」の「…」を読んで「k」の間に合わせる。

対の先:相手の起こりを読んで、攻撃する。

相手と自分で動くタイミングは同時になる。先の先よりも起こりが大きくなったときを見定めるので分かりやすい。ジャンケンで言うなら、相手が振り出す手を見てから速攻でこちらが有利になる手を出して結果、同時出しして勝つことに相当する。

例えば、相手が右ストレートを出すと分かったならこちらはそのストレートが描くだろう軌跡に重なるように空手の捻り突きを出す。こちらの捻りが相手の腕を逸らすのでこちらの攻撃が一方的に当たる。

「…来た!」の「k」を読んで「た」に合わせる。

後の先:相手の起こりを読むのは上の二つと変わりない。起こりを読んだ上で相手の攻撃を躱す。そうして入った相手の死角から攻撃する。

「…来た!」の「k」を読んで「た」で躱しながら「!」で死角から攻撃する。

対立している侍同士が戦ったとき、刀を振りかぶった侍に対して一方が歩いてすれ違った瞬間にもう一方が倒れていた、というよくあるエピソードはこれだと思われる。


先についての説明が長くなった。

対素手のとき、僕はいつも対の先のタイミングで動くことでカウンターをそれなりに上手く取っていた。しかし、先日の稽古で対日本刀での無刀取りをしたときにはそれが仇となった。

相手が刀を正眼に構えて切っ先をこちらの顔面に突きつけてくる。

おいそれと踏み込むことが出来ない。相手までの間が遠い。

ふっと、何となく相手の構えの圧力がなくなった代わりに勢いのある透明な圧を感じた。

打ち気だ。それに反応すると同時に斜め前に、ぬすりと進んだ。

少し遅れて自分がさっきまでいたところを刀が切る。振り下ろされた刀の柄に手をかけててこの原理で刀を奪って先端を相手の腕につける。

後退した。型の終わりだ、と安心したところ、それを見ていた師範に注意を受けた。

「動き出すタイミングが早いよ。刀を取ろうとしてちょっと慌てちゃってますね」

早ければ早いほど良いんじゃないか、と思っていた僕は戸惑った。

「ちょっと君の真似をしてみるね」

僕が刀を持って師範に構えた。正眼に構えて、振り上げて、進んで下ろす。振り上げたときに師範が僕の横に移動した。

「次に慌てないタイミング」

振り上げて、進んで下ろす。あっ、切っちゃう。そう思ったが、剣先は虚空を切った。師範は横にいた。

「わかった?」

違いが分かった。相手が「よし、このまま切れる」と確信を持つか持たないかのタイミングで避けるのがこの型の妙なのだ。

素手相手に対の先をすることができるのは、自分の体で相手の攻撃を逸らすことができるからだ。刀相手だとそうはいかないため、上手く避けることが必要なのだ。

もう一度、こちらから切らさせてもらう。まるで切った相手が煙になって自分の虚を突いてくるような不思議な感覚だ。

このまま切れるという確信が剣に意識を集中させるため、その他についての意識に虚が生まれるのだ。そこにつけ込む。「ああ、これが後の先か」。後の先について少し納得が進んだ。

「やらせてください」

師範が刀を持って振ってくる。

集中。集中集中集中。

濃密になった意識がその光景を長く捉えた。

「まるでセル画みたい」「景色は動かず、人物だけが動く」「打ち気が来た」「でも、まだ動かない」「こわー」「まだ」「こわー」「今」。引きつけて動いて相手の死角に付いた。

「さっきよりよくなりましたね」

でも、少しギリギリすぎた。ここで、ふっと「相手が煙になる」という意識から一つの情景が連想された。

以前、流派の中でも高い実力を持つ師範が指導をしているところだった。「相手に僕の影を打たせるんですよ」といって、相手の攻撃のことごとくを絶妙の拍子で避けて反撃していた。

その指導を真似したときには上手くいかなかったのだが、ここで繫がった。そのときの僕は対の先の拍子で動いていたから駄目だったのだ。

「もう一度お願いします」

相手の背後に集中。景色が止まって、その中を動く師範の姿が対比される。刀が持ち上がる。足が進む。下ろされる刀に自分の影、残像を残して切らせる。死角につけ込む。

影を残すイメージは上図のよう。危なげなく避けることができた。おそらく「影を残す」という意識が、自然とギリギリまで待って急に進む動きによくマッチしたのだと思う。タイミングを知ったことで師範の言葉を使えるようになった。

「景色の中を動く相手に影を残してそこを切らせる」

また、一つ自分の知が増えた。また、ここから後の先についての理解も進んだ。マイクロスリップを殺すのが後の先の真価なのだ。

マイクロスリップとは「動作の細かな修正」と思ってもらって相違ない。例えば、熱いお茶を飲もうと湯のみの真ん中を持つと思ったよりも熱く手を離してしまう。そして、無意識の内にそこまで熱くない湯のみの上部を持って持ち上げる。これが修正だ。修正は時間があればあるほど容易に変ずる。
上図で説明する。事象は空間と時間の中のどこかに位置する。時間が経てば経つほど、まるで円錐の底辺のように未来と過去に事象の可能性が広がる。現在だけは0秒(事象A)であるため可能性はないが、光は1秒に地球を7周半するし、月まで到達する。もっと時間があれば太陽にまで到達できる(事象B)が、たった1秒の間に太陽まで到達することはない。可能性の外だ(事象C)。時間が経つほど、行動の可能性が増える。逆にいえば、修正を可能になるには時間が必要だ。

日本刀に対して対の先のタイミングで動けばどうなるか。

相手が刀を振り上げたときにこちらは移動中だ。少し刀の方向を変えれば、振り上げたその位置エネルギーのために後は刀身を落とすだけで切り裂くことができるのだ。

つまり、動き出すタイミングが早ければ相手の修正を容易にしてしまう。一方で、後の先の拍子、ギリギリのタイミングならそんなことは起こらない。

前述した「このまま切れる」という意識の集中もあるが、ギリギリで避けることで修正をさせない、マイクロスリップを殺すことができる。さらにいえば、先の先は相手の初動、つまり0秒の時点を抑えることによるマイクロスリップ殺しなのではないか。

時間、拍子を見極めることで相手の可能性が生きるか死ぬかを自在にする。武術の、死活を根源にすることの本領がここにあるように思う。

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