暮らしにひそむ武術を暴露します。気分は週刊フライデーbyよーり
……nailing……
一昨日、足先が頭を越すように蹴り上げの動的ストレッチをしていた。そのとき、立ち位置を変えて続けたときに悲劇は起こった。廃棄しようと積み上げていたビデオデッキを爪先に当ててそのまま蹴り抜いてしまったのだ。
上空をみて足下をみなかったゆえの個人的悲劇だった。
上空をみて足下をみなかったゆえの個人的悲劇だった。
「アングレエェ……!」
日本語にならない痛みを深呼吸して抑えようとした。誰もいないので気のすむままのたうち回った。
十分後。痛みがある程度引いたとき。早くも親指の先が黒くあざになっていた。爪先を地面につけると痛みが走る。自然と、爪先を上げて生活するようになった。
十分後。痛みがある程度引いたとき。早くも親指の先が黒くあざになっていた。爪先を地面につけると痛みが走る。自然と、爪先を上げて生活するようになった。
「爪先を少しうけて、きびすをつよく踏むべし」
爪先を少し反らして踵を強く踏む、の意だ。この、先日の身体班で語った宮本武蔵の言葉を意識せずにはいられない。爪先を上げて踵を踏むと自然と身体が前に出る。このときブレーキ筋となる大腿四頭筋に力を入れないとずっと前に出ることになる。
やってみれば分かるが、歩くときにほとんど力を使わなくていいから楽である。とはいえ、この身体の使い方と効用は何年も前から知っているから特に目新しくない。
が、坂道を下っているときにあることを思い出した。
やってみれば分かるが、歩くときにほとんど力を使わなくていいから楽である。とはいえ、この身体の使い方と効用は何年も前から知っているから特に目新しくない。
が、坂道を下っているときにあることを思い出した。
「僕、靴底が外側に減るんですよ」
「じゃあ、太ももを内旋するといいよ」
師匠と交わした会話だ。師匠に言われる随分前に太ももの内旋は試していたが、爪先を上げた状態でもっと工夫しようと思った。
爪先を上げつつ太ももを内旋する。靴底の内側に負担を回そうと足裏の内側に体重をかける。前にやった記憶と同じく、納まりが悪い。踏み込みは上手くいくのだが、最後に足が地面から離れるときに足首の曲がりが足りなくなって爪先が外に跳ねてしまう。
その後、体重を膝の内側にかけても外にかけてもどちらにせよ納まりの悪さは変わらなかった。さらに師匠絡みで思い出した。
爪先を上げつつ太ももを内旋する。靴底の内側に負担を回そうと足裏の内側に体重をかける。前にやった記憶と同じく、納まりが悪い。踏み込みは上手くいくのだが、最後に足が地面から離れるときに足首の曲がりが足りなくなって爪先が外に跳ねてしまう。
その後、体重を膝の内側にかけても外にかけてもどちらにせよ納まりの悪さは変わらなかった。さらに師匠絡みで思い出した。
「なんだか君は身体が後ろに少し反り気味だねえ」
よく微細な角度が分かるなあと思ったものだが、その言葉を受けたのちに鏡でじっくり姿勢を直した。そのときに思ったのが、身体が鉛直だと不安定な感覚がするというものだった。考えてみれば当たり前だが、鉛直な状態とは支えがない状態なのだ。少し身体が後傾しているということは踵に体重を預けていることになる。
鉛直なら、足裏のどこにも体重を預けない。フリーなのだ。
鉛直なら、足裏のどこにも体重を預けない。フリーなのだ。
このときの感覚を思い出して身体を鉛直にして爪先を上げる。歩く速度が上がった。おそらく、このときまでは無意識に身体が後傾して前に進むスピードを殺していたのだ。
去年にスノーボードにいったときのことを連想した。スノーボードが一番加速するのはボードに均等に体重が散っているときだ。どこかに体重が集中すればそこに雪の摩擦がかかって減速してしまう。
しかし、体重が散っているとき身体はもちろん不安定になる。不安定な状態でどんどんスピードが上がっていく中、事故があったときにそのダメージが大変なものになると恐怖して僕はエッジに体重をかけて時折減速するのが癖になっていた。今回も同じだ。
去年にスノーボードにいったときのことを連想した。スノーボードが一番加速するのはボードに均等に体重が散っているときだ。どこかに体重が集中すればそこに雪の摩擦がかかって減速してしまう。
しかし、体重が散っているとき身体はもちろん不安定になる。不安定な状態でどんどんスピードが上がっていく中、事故があったときにそのダメージが大変なものになると恐怖して僕はエッジに体重をかけて時折減速するのが癖になっていた。今回も同じだ。
とはいえ、安定を感じるのは簡単なのだが最も不安定な状態を感じるのはなかなか難しいものである。何か姿勢の照準を合わせるものが必要だと思った。
それまで僕は浮世絵のことも考えていて、浮世絵的に、世界を二次元に見る意識をしていた。すると、視界に縦と横が効いてくる。僕は綺麗に平行にならぶ街路樹に反応した。
これだ!
自分の身体がピッタリ街路樹に寄り添うそうに感覚を傾けた。途端に身体が不安定になって、歩きの速度が増した。成功したのだ。
その感覚で風を切って歩いていると、すれ違う通行人の姿勢が気になった。どれくらい鉛直からズレているかが分かるのだ。試しに、通行人の中に可視化された軸に身体を沿わせても上手くいくことが分かった。
そこでまた一つ仮説が出来た。稽古のときに相手に可視化した鉛直な軸に身体を沿わせればスルリと歩きはじめることができるのではないか。強い相手に圧倒されてこちらがのけ反ることなく歩むことができるのではないか。師匠が著書で綴った言葉をもう一つ思い出した。
それまで僕は浮世絵のことも考えていて、浮世絵的に、世界を二次元に見る意識をしていた。すると、視界に縦と横が効いてくる。僕は綺麗に平行にならぶ街路樹に反応した。
これだ!
自分の身体がピッタリ街路樹に寄り添うそうに感覚を傾けた。途端に身体が不安定になって、歩きの速度が増した。成功したのだ。
その感覚で風を切って歩いていると、すれ違う通行人の姿勢が気になった。どれくらい鉛直からズレているかが分かるのだ。試しに、通行人の中に可視化された軸に身体を沿わせても上手くいくことが分かった。
そこでまた一つ仮説が出来た。稽古のときに相手に可視化した鉛直な軸に身体を沿わせればスルリと歩きはじめることができるのではないか。強い相手に圧倒されてこちらがのけ反ることなく歩むことができるのではないか。師匠が著書で綴った言葉をもう一つ思い出した。
「相手に命を捧げる気持ちでいなさい」
この、爪先を上げてスルリと歩く方法には一つ弱点がある。一度歩きはじめると急には方向転換ができないのだ。だから、相手が動き出す「起こり」をしっかり読んでから歩きはじめないといい食い物にされる。
しかし、しっかり起こりを読んだつもりでも気持ちの上で少し怖じ気づくことがある。そうすると初動が遅れて攻撃の対処がギリギリになる、もしくは間に合わない。
怖じ気ついたときに僕は後傾しているに違いない。刀の下は地獄、一歩踏み込めば天国なのに。相手の攻撃が始まるときに、相手の軸に自分を沿わせる、つまり捧げる気持ちでいたなら、物怖じすることなく鉛直な身体で死地にスルリと入り込んで一転、活地になるはずだ。しっかりこの意識を反復しないと。
しかし、しっかり起こりを読んだつもりでも気持ちの上で少し怖じ気づくことがある。そうすると初動が遅れて攻撃の対処がギリギリになる、もしくは間に合わない。
怖じ気ついたときに僕は後傾しているに違いない。刀の下は地獄、一歩踏み込めば天国なのに。相手の攻撃が始まるときに、相手の軸に自分を沿わせる、つまり捧げる気持ちでいたなら、物怖じすることなく鉛直な身体で死地にスルリと入り込んで一転、活地になるはずだ。しっかりこの意識を反復しないと。
椅子に座ったときに先日の身体班で出たトピックを思い出した。仙骨と腸骨——骨盤の後ろの三角形の骨が仙骨で腸骨は仙骨からグルリと回って恥骨で繫がる二つの骨——の間の仙腸関節を緩めると丹田が膨張するというものだ。椅子の上を座骨で歩くようにすると、やはり膨張感覚がある。しかし、緩まるから膨張するのか、腸骨を動かそうとするから腸骨が囲む丹田の中の筋肉が動くのか。緩まるから動くのか、動くから緩まるのか。鶏と卵のどちらが先かという話だ。
閑話休題。その後、歩くときに座骨から歩くするようにすると瞬く間に膨張感覚が強まった。丹田が膨らむことで重心が下がり姿勢が安定する。腕に何か違和感があった。いつもと違う。そうだ、腕がブラブラ揺れる感覚がないのだ。
腕が揺れないということは、足が動くときの反作用で腕がバランスをとる必要がないということだ。ナンバという言葉がある。甲野氏が提案した「江戸までの日本人は今と違い、左右で同じ側の手と足を出していた」という歩き方だ。
甲野氏が能の所作と一部の浮世絵から強引に展開したナンバ論に対して、このときの僕の状態が真のナンバではないか。腕がゆれないということは身体の捻りがないということでもある。
甲野氏が主張するような、同じ側の手足を一緒に出すことをする必要は別にない。丹田に重心が集まって、丹田の中だけで重心が動いてバランスをとることでまっすぐ進み、自然と手が揺れなくなるのではないか。自分の感覚からそう思った。
甲野氏が能の所作と一部の浮世絵から強引に展開したナンバ論に対して、このときの僕の状態が真のナンバではないか。腕がゆれないということは身体の捻りがないということでもある。
甲野氏が主張するような、同じ側の手足を一緒に出すことをする必要は別にない。丹田に重心が集まって、丹田の中だけで重心が動いてバランスをとることでまっすぐ進み、自然と手が揺れなくなるのではないか。自分の感覚からそう思った。
また、身体班で「武術はリズムを作らない」という自分の言葉を思い出した。上記はバキの画像だが、前々から僕は「どうすれば左右の揺れを完全になくして隙をなくせるんだろう」と疑問に思っていたが、ここで答えが出た。
左右に意図のない揺れがあると、左右に動きやすいときと動きにくいときが出来てしまう。左に揺れたときは右に動きにくいし、その逆もしかり。それがリズムを作らないということだ。
丹田の中だけで重心が動けば外からは身体が動き出す「起こり」が見えなくなる。「見えない動き」とは重心の動きが見えない動き、リズムが見えない動き、タメを作らない動きということではないか。
左右に意図のない揺れがあると、左右に動きやすいときと動きにくいときが出来てしまう。左に揺れたときは右に動きにくいし、その逆もしかり。それがリズムを作らないということだ。
丹田の中だけで重心が動けば外からは身体が動き出す「起こり」が見えなくなる。「見えない動き」とは重心の動きが見えない動き、リズムが見えない動き、タメを作らない動きということではないか。
すると、異常に速く動いているように見える黒田鉄山先生の動きにも納得がいく。スローで再生してみると、黒田先生には全くタメがなく全て一拍子で動いていることが分かる。実際にボルトのように速く動いているのではなく、全ての動作がいきなり等速ではじまるから速く見えるのだ。
と、丹田の中で重心が動くようになったことで足にも変化が現れた。
今までは膝の内側に重心を置いていたのだが、自然と重心が膝の中心にきていた。膝に負担なく、滑らかに動いていた。
そこで、太ももを内旋する。重心が膝の中心にあるまま太ももを内旋すると自然と足裏全体に身体の重さを感じた。つまり、軽く重心が散って軽く感じる。丹田の中で重心が動くようになったから重心が膝の自然なポジションに収まったのだろう。
今までは膝の内側に重心を置いていたのだが、自然と重心が膝の中心にきていた。膝に負担なく、滑らかに動いていた。
そこで、太ももを内旋する。重心が膝の中心にあるまま太ももを内旋すると自然と足裏全体に身体の重さを感じた。つまり、軽く重心が散って軽く感じる。丹田の中で重心が動くようになったから重心が膝の自然なポジションに収まったのだろう。
僕の師匠は異常に丹田が膨張していて失礼ながらたぬきもかくやという人物である。師匠は「太ももを内旋させるといいよ」とおっしゃったが、それは丹田内部でバランスをとれる師匠からすると自然なコツだったのかもしれない。少し、達人の境地に近づけた気がした。
さらに、丹田を作るためのお尻歩きで座骨を動かしていたことを思い出した。歩きの最中で座骨から動くことを試すと、狙い通り、丹田が強まった。
「相手の中に見える鉛直な軸に身体が沿うように、爪先を上げて座骨から一歩を踏み出す」
身体の宇宙が新たな知の姿に収束した。眠ろう、夜明けは近い。
さらに、丹田を作るためのお尻歩きで座骨を動かしていたことを思い出した。歩きの最中で座骨から動くことを試すと、狙い通り、丹田が強まった。
「相手の中に見える鉛直な軸に身体が沿うように、爪先を上げて座骨から一歩を踏み出す」
身体の宇宙が新たな知の姿に収束した。眠ろう、夜明けは近い。
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